自己理解と他者理解~他人を知れば自分が分かる~

■ "レリゴー"で考えさせられる「ありのままの自分」

古い話で恐縮ですが、2013年の秋に公開されたディズニーの長編アニメ「アナと雪の女王」は、何度も見たというファンも多く、日本でも四か月のロングランになりました。

映画の主題は二人の姉妹の結びつきや愛をでしたが、姉が失意の中でノースマウンテンにたどり着き、氷の城を魔法で生み出しながら、自分を抑えるのをやめて「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの」と歌った主題歌「レット・イット・ゴー (Let it go)」は、「レリゴー、レリゴー」のフレーズが子供たちにも人気となり、大ヒットになりました。この曲のヒットは、アニメのストーリーやメロディーの質の高さもさることながら、「本当の自分はなにか」「自分に正直に、ありのままの自分で生きる」というわかりやすいメッセージが、いまの時代にそれなりに受け入れられる素地があったからではないでしょうか。しかし問題は、「本当の自分はなにか」が分からないところにあります。

人はみんな、ストレスなく生きたいと思っています。しかし、人は自分の生活といえども自分ひとりで生きているわけではないので、毎日のように意にそぐわない出来事に遭遇したり、思いに沿わないことに違和感をもったりしながら生活をしています。さらにどんな環境やストレスを我慢できるかは人によって異なるため、その違いが新たなストレスの原因になることもあります。できるだけ自分にあった生活をしたい、職業につきたいと思うのも当然のことと言えましょう。

■ 自己理解ってどうやればできる?

こうして人は、「私っていったい何?」「私はどんな人間?」「私にはどんな長所があるの?」と、「自分探し」を始めるのですが、これは人間が他者を意識するようになって以来の普遍的な疑問です。学校から社会に出る、あるいは仕事をするにあたって、自分に合った専門・職業は何かを探す時期になると、最初に人は、自分の棚卸を始めます。
 
そこでよく行われるのは、自分を詳細に分析し、血液型から趣味や嗜好、性格、長所・短所、好きな教科嫌いな教科、なりたい職業・・・などを詳細に確認し、自分を知り、気づいていない宝ものを探そうとすることです。しかし実はそれをいくらやっても、「自分は何か」は分からないのです。つまり、医学的な検診のように「物理的」に自分を知るのと違い、自分の要素細分化したからといって自己理解になるわけではないのです。なぜか?理由は簡単です。社会の中で生きているからです。

■ 他者理解

例えば、ビー玉が1つあります。

図1.jpg

「このビー玉はどんなビー玉ですか?」と質問したら、皆さんは、どの様に答えるでしょうか?
黄色いビー玉、白が少し入っている・・・とこのビー玉を理解しても、このビー玉を理解したことにはなりません。なぜか?

このビー玉は、ほかにこんなビー玉に囲まれているのです。

図2.jpg

この集合写真のビー玉を見て、黄色のビー玉はどんなビー玉?と説明してみてください。

前の場合とは違った説明が必要になるはずです。集団に中に入ると、ビー玉の特徴がよく分かります。単独で考えていたビー玉よりも、集団の中でどんな位置にあるのか、よく分かるはずです。これがつまり「自分は何か」ということについての答えになります。

自己を理解するためには、比較対象となる存在が不可欠で、それが集団、社会ということになります。自分だけがあるのではなく、「社会があって自分がある」と言うこともできましょう。こうしたことから、自己理解とは、言い換えれば他者理解が前提になっており、「自己理解」=「他者理解」ということでもあるのです。成長の過程でも客観的視点を持って自己理解できるかどうかが、影響するのではないでしょうか。


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